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大阪 鍼灸治療 往診  女性鍼灸師 村上はり・灸院

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鍼灸の歴史起源発生と発展

鍼灸の発祥と発展

鍼灸の出現は石器時代にまでさかのぼります。

人々が偶然に石やとげなど尖った硬いもので身体の表面のある部分をぶつけたことにより思いもよらず痛みが軽減したことより、意識的に尖った石を身体のある部分に刺したり、身体から出血させることにより疼痛を軽減させる治療を始めました。


出土したへん石


  時間が経つにつれ、人々は採掘や研磨技術を掌握し、比較的精緻な治療を目的として人体に刺入することのできる石器を作ることが出来るようになりました。

  これらの石器こそ最も古い医療道具の「へん石(へんせき)」(へん:いしへんに乏)と呼ばれるもので、当時、化膿性感染の切開排膿など外科的治療に使用され、針石などとも呼ばれるようになりました。
《山海経》には「玉の如き石有れば、針と為せる」との記載も有り、後世における刀針工具の基礎であり前身でもあるといえるでしょう。



  灸法は人類が火を使用できるようになったのち、火を使用する中で身体のある部分の痛みが火によって焼かれたり温めたりされるうちに症状が緩解されることが発見され、その後、焼いた石を獣の皮や樹木の皮で包むことをおぼえ、砂や土によって局部を温めるなどの方法がつかわれるようになった後、徐々に木の枝や干した草などに火を着けて温めるという治療法へと発展していきました。
  長期にわたる模索によって、燃えやすく温通経脈という作用を持つ「もぐさ」を灸治療の主な材料とし、体表に温熱刺激を行なう灸法が刺針と同様に行なわれるようになり、病気の予防や治療の重要な方法となりました。

  戦国時代(紀元前403年〜紀元前221年)から秦漢時代(紀元前221年〜220年)にかけて、中国は奴隷社会から封建社会と変わり、生産力の向上と社会制度の変革によって各学術的思想が進歩しました。古代哲学思想の影響は、鍼灸学をふくむ中医学を実践経験から高度な理論へと深く掘り下げていきました。
この頃にはすでに中医学の理論はほぼ完成し、治療法としてへん石・鍼・湯薬・灸・導引・布気・祝由などがありました。

  この時代の中医学の発展を裏付ける資料として、馬王堆からの出土資料があります。

  1973年中国湖南省長沙の馬王堆三号墓から医書が出土しました。

  馬王堆三号墓は紀元前168年ごろ埋葬されたもので、医書《足臂十一脈灸経》や《陰陽十一灸経》 が発掘され、十一の経脈の順行・分布や病気の徴候、灸治療などが記載され、既にほぼ完全な経絡系統が形成されていたことがわかっています。



馬王堆墓出土資料・導引

馬王堆墓出土資料・文献


また、現存する最古の中医学の経典著作である《黄帝内経》は前漢(紀元前206年〜9年)の末期、医書として世に出ました。

  古典の中で初めて針灸治療に関する記載がみられ、すでに完成された経絡系統、即ち十二系脈・十五絡脈・十二経筋・十二経別および経脈系統に関係する標と本・根と結・気街・四海などや?穴・鍼灸法・刺針適応症や禁忌症についての詳しい記載もあり、特に《黄帝内経 霊枢》にはさらに豊富かつ体系化された鍼灸理論に関する記載がみられ、それにより《黄帝内経 霊枢》は鍼灸学術の初めての総括と考えられており、その主な内容は今日の鍼灸学の核を為す内容です。
  《黄帝内経》に続いて戦国時代の神医と称される扁鵲の著した《難経》によって鍼灸学説は補われることとなり、完全なものとなりました。

  晋代(265年〜420年)の医家である皇甫謐は《黄帝内経》などの著作を研究して《鍼灸甲乙経》を著し、その中で臓腑経絡学説について論述すると共に経絡学が発展することとなり、すでに確定されていた349箇所の兪穴(つぼ)とその主治、またその兪穴(つぼ)に対して行なう操作方法などについて述べており、併せて鍼灸治療の方法やよくみられる疾患の治療を紹介しています。これにより鍼灸学は二度目の学術的な整理がおこなわれることとなりました。


  その後も多くの優れた医家があらわれ、清代(1636年〜1912年)の初期から後期にかけて鍼灸医学はたいへん栄ましたが、清代後期から民国時代にかけて、だんだんと衰退の道をたどることとなりました。

  道光皇帝の封建的統治により「鍼で刺し火で灸をするのは、つまるところ君主に対する行いではない」との理由で皇帝一族に対する治療での鍼灸の使用が禁止されたり、アヘン戦争後の統治者は中医学を軽蔑し途絶えさせようとしたことが更に鍼灸をすたれさせることになりました。

  しかしこのようなことがあっても「鍼灸治療が病気を治療する」ということが人々の心に深く根付いており、よって鍼灸治療は民間で広く使われ、伝わることとなりました。

  民国時代には政府の命令により中医学を廃止する命が出されたこともありましたが、多くの医師たちが鍼灸学術という自国医学文化の結晶の保存と発展のために鍼灸学社を結成し、また鍼灸雑誌を編纂や鍼灸の通信教育を始めるなどの貢献をし、近代では西洋医学の学習と鍼灸治療の応用を提唱し、鍼灸治療は病院での診療科目となりました。

  中国が中華人民共和国になり、自国の医学の伝統の継承と発展が重んじられ中医政策がとられました。公的機関に鍼灸治療法実験所や全国各地の中医学を学ぶ学校に鍼灸学科が併設され、鍼灸に関する古書の注釈や校正なども行なわれ中国鍼灸学会も成立し、鍼灸学はますます発展し、現在は内科・外科・婦人科・小児科・整形外科・耳鼻科・眼科領域における多くの疾患で良好な治療効果がみられるようになりました。


 1979年WHOは43疾患について鍼灸治療が有効であると発表し、2010年、中医鍼灸は人類非物質文化遺産(無形文化遺産)に認定されました。

鍼灸の伝来と日本での発展

6世紀ごろ、鍼灸学は日本・韓国などアジアや西ヨーロッパ・東欧など国外へと伝えられました。日本へは遣隋使や遣唐使によって伝来されたといわれ、その後も大陸から伝えられた貴重な書物や技術が研究され、丹波康頼が「医心方」を編纂し984年、朝廷に献上しました。


   丹波康頼      国宝 半井家本 医心方

その後、日本における針灸治療は独自の発展をとげ、中国鍼灸では見られない打鍼法(鍼を刺さない治療法)や鍼管(鍼を刺す時に使用する短いストローのような管)が発明され、臨床で広く普及しました。また江戸時代には盲人の職業として確立されました。
明治時代、日本においても西洋文明の導入と共に漢方医学および鍼灸は排斥されましたが、大正時代に再び伝統的医学の復興が叫ばれ、研究が進められました。1945年、按摩・鍼灸・柔道整復は医業の一部として治療行為を許される事となり、現在へと至っています。

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